新米ママが読む日本文学 ー万葉集編ー

top_news_36瓜食(うりは)めば 子ども思ほゆ

 栗食めば まして偲(しぬ)はゆ

何処(いづく)より  来(きた)りしものそ

眼交(まかなひ)に もとな懸(かか)りて

安眠(やすい)し寝(な)さぬ

(山上憶良 巻五・802)

学生時代のことです。万葉集についての授業の中で、この歌について解説をしていた恩師が、ぽつりと「みなさんにはまだこの歌はほんとうにはわからないかもしれませんね」とおっしゃいました。

kurikuri「瓜を食べれば子どものことが心に浮かぶ。栗を食べれば一層のこと。いったいどこからやって来たのか、子どもの姿が頭に浮かんでゆっくりと眠ることもできない。甘い物が簡単に手に入る現代と違って、瓜や栗のような甘みのある食べ物が、貴重な高級品であった時代のこと、官人として宴の場などでそれらを食す機会に恵まれた憶良は、こんな美味しいものを子どもにも食べさせてやりたい、と思ったのでしょう。」

恩師の、お子さんたちへの愛情がにじんだ、静かな声を覚えています。子育ての具体的なイメージなどほとんどなく、まだ自分のことだけで精一杯だった私にとって、実際、憶良の歌はどこか遠いものでした。いつか自分も子どもを持ったらこの歌がわかるようになるだろうか、という期待とともに、私はこの歌を心に留めるようになりました。

さて、月日は流れ、私には今、もうすぐ一歳になる息子がいます。

ところがそれでこの歌への理解が深まったかというと、実はそうでもありません。

考えてみれば、子どもが生まれてからこの方、我が子と離れておいしいものを食べる機会などめったになかったし、我が子の面影が浮かんで眠れない、などと優雅なことを思う以前に、横で赤子がぐずってしょっちゅう眠りを妨げられる日々を送っているわけです。子育ての嵐のまっただ中にあっては、憶良のようにしみじみと我が子を可愛いと思う余裕もないものなのだ、ということを思い知らされました。

一方で、とても他人事とは思えなくなったのが、やはり憶良によって詠まれた次の歌です。

憶良らは 今は罷(まか)らむ

子泣くらむ それその母も 我(わ)を待つらむぞ

(巻三・337)

(わたくし憶良めはもう失礼いたします。家で子が泣いているでしょう。そしてその母も私を待っていることでしょう。)

宴の場を辞する時に詠まれたもので、今で言えば、妻子のために飲み会を早めに切り上げるサラリーマンのお父さんを想像してみればいいかもしれません。

海外に暮らし、親の援助を頼めない私にとって、育児の頼みの綱は夫です。我が子が新生児の頃は特に、泣いてばかりの赤ん坊を抱いてあやすのに精神的にも肉体的にも疲れ果て、夫が帰ってくるのを今か今かと待ちかまえる毎日でした。

少し楽になってきたとはいえ、いまでも夫が家にいるとほっとします。一人きりで子どもの世話をすることがどれほど消耗するもので、「人手があること」がどれほど助けになるか、実際に子どもを持つまでは、全くわかっていませんでした。今になってようやく、憶良の歌う「それその母も我を待つらむぞ」に込められた、たしかな生活の手触りを理解しはじめたように思うのです。

志貴皇子学生の頃、私は憶良とはまったく違ったタイプの歌人が好きでした。たとえば「石ばしる垂水の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかも(巻八・1418)」などの優美な歌を残した志貴皇子。その歌風から私は、高貴で優しくどこかさびしげな人物を勝手に想像していました。ところが、思いあまって「結婚するなら志貴皇子みたいな人がいいんです」と言う私に、恩師は「志貴皇子はねぇ、素敵だけど、ああいう男はモテて他に女をつくるからやめた方がいいわよ」と笑って言うのでした。

その時は納得できなかった恩師の言葉の意味が、今ならわかるような気がします。そう、きっと志貴皇子は泣く子と育児に疲れ切った妻のために早く帰ってくるようなタイプではなかったんじゃないかと思うのです(念のため申し添えておきますが、これも完全なる私の想像、というか妄想です)。そして、家族を気にかけて早く帰ってきてくれるような山上憶良のような男性は、生活を共にするパートナーとしては志貴皇子よりずっと頼りになる存在であったことでしょう。

恩師の教えのおかげかどうか、どちらかといえば山上憶良タイプな夫と結婚してほんとうによかったと、今、思います(そもそも志貴皇子のような男性が私の前に現れることはなかったので、そちらは選びようがなかったのですが)。

ああ、でも、学生時代の自分に、結婚するなら志貴皇子じゃなくて山上憶良がいいよ、って言ったら、きっと嫌な顔するんだろうな。

【プロフィール】
矢作綾子 Ayako Yahagi
お茶の水女子大学大学院日本語日本文学コース修士課程修了。
ドイツ留学を経て、現在はアメリカ西海岸在住。
11ヶ月男児のママ。本を片手に育児に奮闘中。

新米ママが読む日本文学 ー万葉集編ー への1件のフィードバック

  1. 山田(さんた)の妹 のコメント:

    私は日本で育児をしていて、お互いの両親も近くにいて、休みの日の研究会や子どもが風邪をひいたときにお世話になっているにも関わらず、金曜日には自分の生活に疲れ、実家に避難することもままあるよ。仕事とか女子会で親に預けている優雅な身分のときは、億良のようにやはりそわそわして、いま何してるかな?早く帰らなきゃとそればかりだよ。
    海外で親の手も借りずに子育てに奮闘する二人は本当にすごいと思う。
    あと1年もしたら、チビちゃんの方が様々な働きかけや、反応を返してくれるようになるよ!

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