歴史を学んで旅に出よう vol.3 オーストリア/ウィーン

歴史を学んで旅に出よう vol.3 オーストリア/ウィーン

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音楽、絵画、建築など数多くの華麗なヨーロッパ芸術で溢れる街、ウィーン。 面積は、北海道とほぼ同じと言う、小国であるオーストリアの首都が、なぜこれほどの貴重な文化遺産を持っているのか?それは、600年以上の長きにわたり栄華を誇ったヨーロッパ最大の名門、『ハプスブルク家』がウィーンに居城を置いていたためです。ひとたび、足を踏み入れれば、ハプスブルグ家の香りが、そこかしこに。ハプスブルク家を避けてウィーン観光はできないというくらい、街はその面影を色濃く残しています。そして、その優雅さや華やかさに虜になる女性も多いのです。「歴史はちょっと苦手・・・」という女性にも、ハプスブルグ家の歴史は、楽しんでもらえるようなエピソード満載です。そんなハプスブルグ家の歴史を少しご紹介しましょう。

「戦争は他国にさせておけ。幸いなるオーストリアよ。汝は結婚せよ。」

ハプスブルク家は、最盛期には、ドイツ、スペイン、オランダ、ハンガリー、チェコ、イタリアなどのヨーロッパだけでなく、中南米までをも支配していました。ハプスブルク家がいかにしてこの大帝国を築いたのか?

その一つが、『政略結婚』という手段です。『戦争』によって土地を奪うのではなく、他国の王族との政略結婚によって支配権を獲得するのです。もちろん、戦争もしていましたが、それほどの戦果は挙げていない、というかむしろ負け戦のほうが多い印象です。いくら戦争に勝っても、後継ぎの子がいなければお家断絶、他国のものになってしまう、という時代です。自分や子供たちがどこの国の王子様(お姫様)と結婚するのがよいか、この判断が一大事なのです。そして、その政略結婚のためには、その駒となる子供が必要です。江戸時代の将軍のように、側室を迎えることはできないので(キリスト教の影響)、奥さんには一人でなるべくたくさんの子供を産んでもらわなければなりません。ハプスブルク家は多産の家系でしたので、この点においては幸いしました。

そして、もうひとつ重要な要素となったのは、「運」です。ここ一番のときにハプスブルク家のライバルが死んでくれて、領地が転がり込んでくるということが何度か・・・。きっと、運も実力のうちですよね。

しかし、他国との政略結婚を重ねていけば、当然あちこちに正当な後継者というものが増えていきます。すると、彼らは自国の領地を奪われることを恐れるようになりました。また、この高貴すぎる血筋に釣り合いがとれる適当な相手もいないこともあり、今度はいとこや姪など、親戚同士で結婚するようになります。そうした、近親婚が何世代にもわたって繰り返されていくと、次第に、遺伝的に問題を持つ子供が生まれるようになり、15~16世紀ごろには陰で「あごのお化け」と呼ばれるほど酷くしゃくれたあごを持つ一族になっていました。それだけでも十分悲惨なのですが、生まれつき病弱ですぐに亡くなったり、心身共に虚弱な子供であったりと。そのため、かつては一大帝国を築いたスペインにおける、ハプスブルク家は途絶えてしまうことになります。

美術史美術館、「皇帝マクシミリアン1世とその家族」

美術史美術館、「皇帝マクシミリアン1世とその家族」

ちなみに、ハプスブルク家のコレクションを集めたヨーロッパを代表する美術館の一つ、《ウィーン美術史美術館 Kunsthistorisches Museum》ではハプスブルク家の人たちの肖像画を見ることができるので、「しゃくれたあご」に注目すると面白いですよ。とまあ、 悲惨な近親婚のエピソードはさておき、このように婚活と子沢山、そして幸運によって栄華を誇ったハプスブルク家。侵略戦争をどんどんやって陣取りしていく国よりは、なんとなく平和で優雅で女性的だと思いませんか?

次は、長いハプスブルク家の歴史の中で押さえておきたい、ウィーン市民から今もなお愛されているという2人の皇帝を紹介します。

⚫︎オーストリアの国母、マリア・テレジア

まずは、オーストリア・ハプスブルク家を繁栄に導いたマリア・テレジアです。 父・カール6世がきのこ料理の中毒で急死すると、後継者となる男の子がいなかったために、後にも先にも例の無い女帝として王位につくことになりました。 彼女のすごいところは、有能な政治家でありながらも、なんと、20年間で16人もの子供を産んだというところです。そして、お家芸である『政略結婚』で、その子供たちの大半をヨーロッパ各地に送り出しました。

マリア・テレジア記念碑

マリア・テレジア記念碑

ちなみに、その中で最も有名なのが、皆様もご存じ、フランス国王ルイ16世と結婚した、末娘のマリー・アントワネットです。(個人的には、無知で凡庸なマリー・アントワネットが悲劇的な最期によって、この偉大なマリア・テレジアより有名で、歴史的な人気者になっていることが少し気に入らないのですが・・・。)ともかく、出産が命がけの時代に産休も取らず、国家存亡の危機が次々にやってくる中で妊娠と出産を繰り返していたということが驚きです。

対外的には、彼女が王位につくやいなや、「女子が相続するなんて許せん!」と周辺国から攻め込まれたために始まった戦争をしながら、同時に国内では、行政改革や教育制度改革(義務教育を実行)まで行っているのです。普通の女性であれば、出産と激務でやつれ、からっからに干からびてしまうところですが、ハプスブルク家の夏の居城・《シェーンブルン宮殿 Schloss Schoenburunn》の肖像画を見れば、つやつやとして威風堂々の貫録が漂っています。

また、彼女の人の才能を見抜く力というものは、ずば抜けていたようで、家臣の仕事の成果をきちんと賞賛し、励まし、彼らの意見にしっかり耳を傾けていたようです。それはまさに『いいお母さん』の姿そのものですね。身分が高くその地位にのさばっている老臣たちを見限り、家柄は劣っても新しい発想を持つ優秀な若者を登用したというエピソードもあります。身分を重んじる誇り高き名家にありながら、この気質は本当に素晴らしいですね!このように家臣の人材育成をしていったため、士気も高まり、「この母のような女王の役に立ちたい」と忠誠心も強くなったことでしょう。美術史美術館と自然史博物館の間にある大きなマリア・テレジア記念碑は、何でも受け止めてくれるような大らかな表情で座る彼女の玉座の下を、有能な将軍や政治家、学者などが取り囲んでいて、彼女の治世がよく表されていると思います。

家庭生活においては、初恋のフランツ・シュテファンをお婿さんに迎え、16人もの子供が示す通り、とても仲睦まじかったそうです。ハプスブルク家の栄華を今に伝えるシェーンブルン宮殿の400以上の部屋のうち、晩年のマリア・テレジアが最も好んだのが、夫の部屋であった「漆の間」であり、愛する夫の死後は喪服を脱ぐことなく、この部屋で多くの時間を過ごしたとのことです。ハプスブルク家の人々の145遺体が安置されている《カプツィーナ教会の地下霊廟 Kaisergruft》において、一番目を引くのが巨大なマリア・テレジアの棺です。彼女は夫フランツとひとつの棺の中で、仲良く一緒に眠っています。生前も死後も常に愛する夫の傍らに。男顔負けに政治手腕を発揮した女帝は、人一倍愛情深い妻でもあったのですね。

なお、シェーンブルン宮殿では、日本語のオーディオガイドを借りることができます。それぞれの部屋を巡りながら、彼らの当時の生活ぶり想像する手助けをしてくれるのみならず、子供もそれぞれの部屋で、番号を押すと、日本語が流れてくるという仕組みをおもしろがって、飽きずに見学してくれ一石二鳥でした。

シェーンブルグ宮殿

シェーンブルン宮殿

また、敷地内には、マリア・テレジアの夫が創設した《シェーンブルン動物園 Tiergarten Schoenbrunn》があります。ヨーロッパでは珍しくパンダを飼育する楽しい動物園で、美術館や博物館見学に飽きた子供には大好評でした。

⚫︎オーストリアの国父、フランツ・ヨーゼフ1世

栄華を誇ったマリア・テレジア時代とは対照的に、19世紀から20世紀初めの激動の時代、崩壊寸前のハプスブルク家をなんとか持ち堪えさせた苦労人が、フランツ・ヨーゼフ1世です。彼は真面目すぎるほど真面目で、一分一秒の遅れも許さないほど時間に正確、毎日判で押したような規則正しい生活を送り、皇帝でありながら質素な生活を好みました。皮肉なことに、そんなまじめで働き者の皇帝の人生は、帝国内外で数々の困難に直面し、また、次々と起こる身内の不幸にも襲われるという、何とも波乱に満ちたものでした。戦争に敗れて次々に領土を失い、多民族帝国ゆえに民族独立運動に悩まされ、ハプスブルク帝国の国際的地位はみるみる落ちていきます。一方で、そういった、帝国の悲惨な状況から目を背けるように、人々の関心は文化面に向かいます。フランツ・ヨーゼフ1世も文化・経済の発展に懸命に取り組み、都市計画によってウィーンを近代都市へと変えました。ウィーン観光の中心となる《リンク Ring》と呼ばれる環状道路と、それに沿って建てられた数々の豪華な公共建造物はこの時に建てられたものです。そして、ヨハン・シュトラウス、クリムト、フロイトなどに代表される、史上まれにみるほど様々な文化・芸術が花開いたのもこの時代です。ウィーンの華やかな文化は、ハプスブルク家の斜陽という暗い影があったからこそ輝いたのだと言えそうですね。

また、彼は、68年という長い在位期間に、プライベートにおいても、「これでもか」というほど次々と不幸に見舞われました。 まず1853年、独立運動を鎮圧された恨みから、ハンガリーの青年に暗殺されそうになり、重傷を負います。そして、1867年、弟のマクシミリアンが、皇帝となっていたメキシコで、自由主義勢力によって銃殺されます。1889年、進歩的な考えを持っていたために保守的な父との確執が絶えなかった息子ルドルフが、妻がありながら若い娘と心中。極めつけは、1898年にその、美貌で知られる、彼の最愛の妻、エリザベート(愛称シシィ)が旅先のスイスで暗殺されてしまします。 晩年の彼は、感情の一切を表情に出すことなく、ただ機械のように黙々とルーティンワークをこなしたそうですから、その悲しみがいかほどのものであったか、容易に想像がつきます。

ハプスブルク家の居城・《王宮 Hofburg》では、《皇帝の住居 Kaiserappartements》や皇帝の妻エリザベートの《シシィ博物館 Sisi Museum》を見学することができます。フランツ・ヨーゼフ1世の寝室のにあるベッドはとても簡素な鉄製のもので、質素を好む彼の人柄を示しています。執務室には、妻のエリザベートの肖像画や写真がたくさん飾られて、彼がその美しい妻をいかに愛していたかを物語っています。しかし、妻エリザベートも同様に夫を愛していたかというと、実際はそうでもなかったようです。真面目なのにつくづく報われない皇帝です。彼女はヨーロッパ随一の美貌と謳われていましたが、姑のイジメと厳格な宮廷生活に耐えきれず、公務を無視して逃避行を繰り返しました。精神的に脆く、わがままなお嬢さまのように見えますが、その美しさゆえ、または暗殺という悲劇的な最期ゆえに伝説化され、今や女性を中心にとても人気があります。彼女は、自分の美貌を保つために、必要とあらば、どんな努力も惜しまないという女性だったようです。彼女の豪華な部屋にはおよそ似つかわしくない、吊り輪や登り棒などの体操器具が並んでおり、王宮内で初めて備え付けさせた自分専用の浴室もあります。彼女の美への執念を感じるとともに、とても進歩的な女性でもあったことがうかがえます。そうした、自由で進んだ考えを持つ彼女が、それとは正反対の伝統と格式を重んじる宮廷で生きていくことはとても難しかったのでしょう。(というと、どこかの国の皇太子妃様を思い出すような…。)

ちなみに、そんな、幸せな夫婦生活とはいかなかったこの二人ですが、彼らが結婚式を挙げた、《アウグスティーナ教会 Augustinerkirche》も王宮の敷地内にありますのでぜひ訪れてみてください。(おしどり夫婦マリア・テレジア&フランツ・シュテファンもこの教会で式を挙げてます。)

アウグスティーナ教会

アウグスティーナ教会

フランツ・ヨーゼフ1世84歳のとき、さらなる悲劇が彼を襲います。後継者で甥のフェルディナンドがサラエボで暗殺されたのです。皇帝が宣戦布告文書に署名し、時代は、第一次世界大戦へと突入します。その大戦のさなかの1916年、皇帝はシェーンブルン宮殿にて86歳でこの世を去りますが、そのわずか2年後にオーストリアは敗戦し、ハプスブルク帝国は崩壊します。彼の在世中はなんだかんだ言われながらも、ひたすら真面目に苦難に耐える皇帝を皆が尊敬し、愛していたからこそかろうじてまとまっていました。彼の死後すぐに帝国が崩壊し、帝国内の諸民族がそれぞれ独立を宣言してばらばらになってしまったことからも、多民族帝国をつなぎとめる唯一の力がフランツ・ヨーゼフ1世だったことが分かります。だからこそ、現在も「オーストリアの国父」として慕われているのですね。

帝国の崩壊後、かつての大帝国は現在のような小国となり、第二次大戦前の1938年には、オーストリア出身で、若い頃に画家を夢見てウィーンで過ごしたヒトラーによりドイツに併合されます。ヒトラーがオーストリアの併合を宣言したのは、フランツ・ヨーゼフ1世の命で建設された新王宮のバルコニーでした。ハプスブルク家の美しいバルコニーには、ナチスのハーケンクロイツの旗が掲げられ、新王宮前の広場を埋め尽した市民はヒトラーを熱狂して迎えました。フランツ・ヨーゼフ1世が命を懸けて守ってきたハプスブルク帝国に、このような未来が待っていたとは…。

彼もまた、ハプスブルク家の他の人々と同様に、先ほどご紹介しました《カプツィーナ教会の地下霊廟》に妻エリザベート、長男ルドルフと3人並んで眠っています。夫婦関係、親子関係は決して良好ではなかった一家ですが、死後はこうして仲良く並んで眠ることができ、やっと安らぎを得られたのではないかと感じました。ただし、エリザベートとルドルフの方はどう思っているのか分かりませんがね。

駆け足でご紹介しましたが、ハプスブルク家の歴史を少しでも知れば、ウィーン観光が何倍も豊かなものになります。 また、ハプスブルク家は長い期間、ヨーロッパの複数の国を勢力下に置いていたため、その歴史を知れば、中世から現代の民族問題に至るまでの複雑な西洋史がぐっと分かりやすくなります。もちろん、そんなお堅い部分でなくとも、波瀾万丈で魅力的なハプスブルク家の王様やお姫様の面白いエピソードは他にもたくさんあり、知れば知るほど楽しいですよ。皆様もぜひ、そんなハプスブルグ家の歴史を学び、ウィーンへ出かけてみてください。

リポーター TOMOKO

世界史大好き。特に絶対王政の時代が好きだが、ベルリンへ行って以来、現代史にも夢中。趣味は漫画。目下、木曜日のモーニング発売日が生きがい。一児の母。ドイツ在住4年目。

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