ヒサコラム「ジェンダーの非対称性ー家事育児のイラつき分析」

コロナ禍で子どものホームスクーリングが実施された時、その政策の前提となっているのは「家には当然、子どもの面倒をみる親がいるということ」である。その「親」というのは、「お母さん」であると多くの人が思い込んでいる。お母さんが家にいるという前提で、そこに疑問の余地を抱く事なく、教育政策が作られており、立案側のジェンダーバイアスが見事に反映されている。
振り返ってみると、我が家でも子どもが6歳・9歳ぐらいの頃、日々の生活の中で今以上にイライラとすることがあった。今はその大半は更年期を理由にできても、数年前は更年期という言葉では片付けることができなかった。以前は月に何度か私が友達と夜飲みにいくにも、その日の夜、夫は帰宅後に子供の面倒が見れるか、出張がないのかというお伺いを立てることから始まり、しまいには、後ろめたい気持ちから、家族の夕飯の用意をして、後ろ髪を引かれる思いを抱きながら出かけていた。ちょっと友達と夜飲みにいくだけで、私が申し訳ない気持ちを抱かないといけないのか。この後ろめたい気持ちの根源は一体なんなのか?日々の生活で感じる脳内便秘のようなもやもやを今一度考えてみた。
夫が飲み会に行く時は、夫は残していく家族に夜ご飯作っていかないし、出張の際も同様だ。しか私は誰に頼まれるわけでもなく、子どもを置いて出かける事への申し訳ない感から、自分が食べるわけでもない夕飯をせっせと作っていく、、、この罪悪感の正体こそが脳内便秘の要因である。
それは、社会に蔓延り、そして私の脳内にも蔓延るジェンダーの非対称性なのだ。
家族社会学者である山田まさひろさんが「モテる構造ー男と女の社会学」の中で使っているキー概念で、このジェンダーの非対称性は、仕事がデキる男はモテるのに、仕事がデキる女がモテるとは限らないという命題をうまく説明してくれている。山田氏が述べるように、女らしさ、男らしさという性別による「らしさ」規範が社会に存在しているために、規範からはみ出す行為、つまり社会的逸脱が起きてしまうという。
なるほど、女性に性別アイデンティティを確立している私の場合、母であり妻でありながら、夫と子どもを置いて夜な夜な飲み会に行くことは、母親らしくないことで、その行為をどこかで社会的逸脱行為として認識している自分がいるのだ。確かに自分の母親は、企業戦士を家庭で支える団塊の世代の代表的職業「専業主婦」だったため、毎晩夜遅くまで働き、飲んで帰ってくる父親とは対照的で、子どもを置いてお友達と飲みに出かけることは、一歳なかった記憶がある。このような一世代前の社会政策によって生み出された専業主婦を私は母親像として否応なく内面化ししまっている。
違う山田だが、生まれたばかりの赤ちゃんを置いて飲み屋にでかけた女優の山田優は、メディアに母親失格だとかバッシングを受けていたのを思い出す。こうやって、我々が持つジェンダーの非対称性を、社会はメディアを通して正当化し、強化させていく。
このような価値観を私の代で断ち切ることが、唯一の解決策だと思っている。この罪悪感をまずは社会的構造と過去の産物のせいであることを認識し、自分を少しでも罪悪感から解放してあげる。そして飲みにいく友達を増やす。これに尽きるのだ。そうやって、草の根レベルで改革を起こして自分の人生を楽んだもん勝ちなのだから。
文責 りんごの木管理人 ヒサコ

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